一部の規制推進派と同様に一部のオタクもまた「法的に認められた愛しあう二人の生殖目的のセックス」を頂点とするセクシュアリティのカースト制を自明としています。
また、一部のオタクと一部の規制推進派はセクシュアリティのカースト制によって「萌え」ますが、セクシュアリティのカースト制に対するオタクと規制推進派の関係は全く正反対のものです。具体的に説明すると、オタクは自らがロリとかペドとか二次コンとかいう「下位カーストにあること」を自覚することで萌え、対する規制推進派は自らが正当な「上位カーストにあること」を自覚することで萌えます。
セクシュアリティのカーストは相対的な概念なので、どっちか一方だけでは萌えません。
オタクは自分のカーストをレベルアップするよう上位カーストへ挑戦し、そして「敗北することで自分のカーストを確認」し、萌えます。
規制推進派は下位カーストからの挑戦をあえて受け、そして「勝利することで自分のカーストを確認」し、萌えます。
規制推進派とオタクは、セクシュアリティのカーストを共有しているばかりでなく、自分達が萌えるために「互いを必要としている」と言えます。
オタクが表現の自由にこだわり、また規制推進派がやたらとその部分を刺激したがるのは、セクシュアリティのカーストを確認するためです。また、彼らの勝負は出来レースであり、結果は決まっています。
そればかりか、規制推進派とオタクはセクシュアリティのカースト維持という点で利害が一致しているため、セクシュアリティのカースト制を否定するような動きに対しては「双方が感情的に」反撃するでしょう。
セクシュアリティのカーストを自明としている一部の規制推進派と一部オタクの議論は、議論のようにみえて議論ではありません。議論によって結論を見いだすつもりは全くなく、議論を「継続することが目的」なのですから、迂闊に結論を出さないよう「わざと難解で穴の多い論理を展開」することも多々あります。
一部の規制推進派と一部のオタクは「共依存関係」にあり、彼らの議論は「痴話げんか」と言えます。
セクシュアリティのカースト制を自明とする相手に、表現規制という文脈で児ポ法を語ることは非常に危険だといえます。
いたずらに先の見えない議論ばかりが繰り返され、揚げ句の果てに「議論することが目的」で、議論の結果として「なんらかの一致点を見いだすつもりなんか全くない」事を思い知らされるでしょう。
また、反対に表現規制へ「反対する」という姿勢で活動を展開することにも問題があります。なぜなら、かなりの確立で「反対することそのものが目的」となっている人物が混入し、活動全体をいたずらに混乱させるからです。
そればかりか、マンボウのときもそうでしたが、表現規制に「反対」するという方法論で展開しているかぎり、規制の実体が見えづらくなった「その瞬間」に活力は失われます。最近の情況を例に出すと、もし児ポ法の改正案に「絵の規制が含まれていない」場合、盛大に萌えていた人々はすっかり萎えるか、あるいは乾ききって姿を消すでしょう。
セクシュアリティのカーストにおいて、本当の頂点にたつ存在は「少女というイメージ」です。
表現規制という文脈から児ポ方を考える人々や、規制を推進する人々は、おうおうにして「子ども=天使」という比喩を用いますが、これなんかはセクシュアリティのカースト意識を露呈させたモノだと考えます。
ろり&ぺどは「純粋無垢で天使のような少女イメージを性的に汚す」ことで激しく萌えまつ
規制推進派は「純粋無垢で天使のような少女イメージを性から護る」ことで激しく萌えまつ
いずれにしても、少女=純粋無垢でないと萌えないわけで、既に汚れてしまった「こぎゃる」なんぞは、どちらからも「人間未満」のように扱われ、そしてポイされる運命にあります。
まぁ、あえてこういう表現をもちいるならば、ロリ&ペドにとっても、また規制推進派にとっても、こぎゃるとは「賞味期限の切れた少女」なんでしょうね。
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テーマ:オタクの私生活 - ジャンル:サブカル
- 2007/12/04(火) 21:35:18|
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