オタクとヤンキーの対立が鍵。
しかし、オタクとヤンキーそれぞれが都会と田舎という対立軸を内包していて、そのことが話をややこしくしている。
都会のオタクにとって、最大の味方は都会のヤンキー
田舎のヤンキーと田舎のオタクは同じ思想を共有している
例えば、健全育成思想や純潔思想を共有していて、性教育に対して激しい情緒的拒否反応を示す点でも同じ
しかし、田舎のヤンキーはマンガやアニメ、ゲームというテーマで田舎のオタクを攻撃した。そのため、都会と田舎という対立軸を越えて、オタク同士がまとまってしまった。
少なくとも今のところ、都会のヤンキーと田舎のヤンキーが、活発に相互交流しているという証拠はない。分断状態だと思われるが、今後の調査によっては相互交流を行っていることが判明するかもしれない。
ヤンキー観
ヤンキーはなにかのきっかけでヤンキーでありつづけることを決意している
ヤンキーは商業的上昇志向が強い
ヤンキーがサラリーマン化すると企業戦士になる
ヤンキーはヤンキー的価値観を屈託なく肯定する
ヤンキーは外向的で、外に出る事を好む
ヤンキーは自分達を阻害している現状を否定し、成り上がることでその情況を打開しようと試みている
ヤンキーは自己の能力を過信している
ヤンキーは自分を教導してくれる(エンパワーメントしてくれる)強力な父親的存在を求めている
ヤンキーは自分より強力な存在によって「特別な存在」と認定されたがる
ヤンキーは基本的に放置プレイで育ったため、干渉されることが特別な存在の証しであり、愛の証しだと考えている
ヤンキーは出来もしないことに手を出して失敗した末、できると思ってたのにと言い訳する
オタク観
オタクはオタクでありつづけることを否定しつつも、だらだらとオタクでありつづける
オタクは商業的上昇志向を否定したがる
オタクはそもそもサラリーマンにむいていない
オタクはオタク的価値観に対して屈折した感情を抱く
オタクは内向的で、引きこもり
オタクは自分達を阻害している現状を否定し、過去へのノスタルジアで現状から逃避しようと試みる
オタクは自己の能力を完全に否定している
オタクは自己を無条件で受け入れてくれる慈愛に満ちた母親的存在を求めている
オタクは自分より無力な存在に対する「特別な保護者」と自認したがる
オタクは何事にも干渉されて育ったため、自分が干渉されるのは大嫌いなくせに干渉することが特別な存在の証しであり、愛の証しだと考えている
オタクは自己を無力な存在だと勝手に思いこんでいて、簡単にできるはずのことにさえ手を出さず、他者が成功しているのを観てあの時やっておけばよかったと後悔する
物品販売という行為は、極めて「非ムラ社会的行為」だ。
代金さえ支払えば、誰でも物品を購入することができる。
ムラ社会的価値観に活きる人々にとって、ムラ社会的しきたりを無視して、誰にでも物品を販売する「商人」という存在は、必要ではあるものの胡散臭い存在であり、また商行為そのものに対してもある種の後ろめたさを感じていた。
逆にいえば、購買活動は優れて「脱ムラ社会的行為」なので、ムラ社会的人間関係から離れた人々にとって、もっとも手っ取り早く、かつわかりやすいコミュニケーション方法となりえる。また、同時に購買活動は極めてわかりやすく、かつお手軽な「自己承認行為」といえる。
なにしろ、代金を支払いさえすれば、誰でも「お客様」として承認されるのだ。
オタクもヤンキーも、自己承認を求めている点に変りがない。
突き詰めてしまえば、強者からの承認を求めるのがヤンキーで、弱者からの承認を求めるのがオタクと言えないか?
そして、購買活動による自己承認を自明としているのが都会的で、購買活動による自己承認に対して後ろめたさを感じているのが、ムラ社会的といえるだろう。
自覚しているかどうかは不明だが、規制推進派は児童ポルノや健全育成といった切り口から、非ムラ社会的価値観を攻撃していると定義できる。
そして、非ムラ社会的価値観を敵視しているのは、規制推進派ばかりではない。
規制に反対しているオタクの中にも、非ムラ社会的価値観を敵視している人々は少なくない。
宮台真司氏は『
サブカルチャー神話解体』においてミーハー、バンカラ、ニヒリスト、ネクラ、よりかかりの5種類からなる人格類型論を唱えた。
しかし、宮台氏の類型はムラ社会的価値観を自明としているか、またそうでないかにのみ着目している。
ミーハーとは、購買活動による自己承認行為を自覚的に繰り返している人々である。
その他の4類型は、いずれもムラ社会的価値観を引きずっているため、購買活動に屈折した感情を抱いている。
宮台氏は購買活動による自己承認行為を「自明としている」為、自己承認行為そのものの必要性に対して疑問を抱かなかった。そして、ムラ社会的価値観を引きずっている人々の屈折のありように着目した類型であるため、ミーハーと残る4類型の対比とでもいうべき、バランスを欠いた類型が出来上がった。
ムラ社会的価値観と自己承認欲求を自明としている点において、規制推進派と規制反対派はほとんど同じとさえいえるだろう。内輪の人間関係だけにこだわり、外部の人間を阻害している点や、購買活動による自己承認を軽視、あるいは否定して、ムラ社会的内輪の価値観における相互承認にこだわる点に着目すれば、類似点がより鮮明になるだろう。
オタクにとってヤンキーは敵であり、マンガ規制が始まるまでは「規制推進派を味方として捉えていた」といえよう。
学校の中で暴れ回り、バイクに乗って安眠を妨げる、ゲーセンにたむろして小遣いを巻き上げるヤンキー達はオタクの敵であり、無法なヤンキーを取り締まる警察や生徒指導教員、地域の防犯パトロールなどは、オタクにとって「頼れる味方」だった可能性すらある。
オタクも規制推進派もヤンキーも、人間性を否定している点では共通している。
法律や社会規範などによって外からがんじがらめに縛らない限り、人間は「まともな社会人」として暮らせないという、二重の意味で全く情けない人間観を自明としている。
つまり、まともな社会人という「架空の理想的な人間像」を設定しない限り、どうやっていきていけばいいのかを決めることができず、そればかりか架空の理想的な人間像から外れた生き方を「強制的に排除」しない限り、自分の生き方をコントロールすることができないという情けなさである。
オタクもヤンキーも「世間の目」を基準軸にして生きているという点では同じだが、世間の目を「無条件で是認」している点において、オタクと規制推進派は同じの精神的土台を持っているといえよう。
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テーマ:オタクの私生活 - ジャンル:サブカル
- 2007/12/05(水) 19:51:48|
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