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ねたのやり取り用

オタクはフツーの人だよ論

以下の文章は2007年10月13日のエントリ「疎外と帰属?」および20同月15日のエントリ「役に立たないモノはクズ」をseven氏にリライトしていただいたものです。特に、前書きから導入部分にかけては、全く新規に書き起こされたものなので、かなり印象が変わっています。
もちろん、本文にも細かく手を入れていただいたので、非常に読みやすく、かつ論旨が明確になっています。出来れば当初の文章と比べながら、その違いを楽しんでいただけたらうれしく思います。

最後に、拙く乱雑な文章に手を入れていただいたseven氏に、心から感謝の意を表します。

「オタクはフツーの人だよ論」

 私の街で最も老舗の本屋は、三階建てになっている。1階が雑誌とか小説とかの一般人向け、2階が学習参考書とかの子供向け、3階が様々な専門書で、その道の玄人向けの区画となっていた。私はずーっと以前よりこの本屋の常連であったが、学生の頃、この本屋の漫画本区画というのは、2階の学習参考図書コーナーの一隅にあるのみであった。私は漫画本なんぞは基本的に立ち読みで済ませる性分であり、学習参考書なんぞは立ち読みもしたくなかったから、大概の場合2階は素通りして、3階の専門書コーナーへと足を運び「世界残酷物語」とか、「生命の七つの海」とか、「メタマジックゲーム」とかの奇書怪書の類に眼を通すのが常であった。
 それで、何故か2階漫画本コーナーはその後どんどん拡大を続けた。学習参考書区画をあっという間に圧倒し、少年マンガ、少女マンガ、青年マンガ、という具合の一般的なカテゴライズのみでなく、人気作家専用コーナーとかも設けられたりした。そのうちにマンガだけではなく、テーブルトークRPGとやらで使うという20面体ダイスとかなんだとかの珍妙なアイテムも並ぶようになった。私は、こんなサイコロで如何なる博打をやるのかと、しげしげと眺めたものである。
 ある日、いつものように老舗の本屋に出かけると、なんだか2階がアザラシの繁殖場のようになっていた。瓶底メガネをかけた肥満体の男共の一団に、フロアが占拠されていたのである。その後、こうしたステレオタイプな「オタク」像はうんざりするほどメディアに登場する事になるんだが、当時の私は別になんとも思わなかった。大体、ああもマンガチックなオタクが大集合したのは、後にも先にもこれっきりである。何が原因かは、さっぱり解らない。ただしあの時、通常体型の少年少女達もマンガを買いに来ていたのだが、彼らが妙に居心地の悪そうな顔をしていたのは、今でも印象に残っている。
 2階マンガコーナーは更に拡大を続け、ついに収容不能になったらしい。老舗の本屋は隣接する小さな古ビルを買い取り、ここをマンガ類専門書店として改装オープンした。マンガは無論、アニメビデオにテーブルRPG用のアイテムに、フィギュアに、同人誌製作用のケント紙とスクリーントーンまで商う店であった。漫画家の先生達によるサイン色紙だの生原稿だのが、壁に何枚も飾られていた。私の友人の幾人かも、この新書店に足繁く通うようになり、彼らは「オタク」と呼ばれるようになった。別に、当の本人達が望んでいる名称ではなかったらしいが。一方の私は、相変わらず旧書店の3階に通い、「木炭自動車の原理と制作」なんぞという、およそ絶対に役に立たないような本を読んでおり、単なる奇人変人と称されている。

 さて、ただの奇人変人である私にとって、なんとも羨ましい現象が起こり始めた。評論家の偉ーい先生方が、「オタク文化」だとか、「高等遊民」だとか言うキーワードで、矢鱈とオタクを持ち上げだしたのである。ただし、オタクであり、おそらく最も初期にテープルRPGにのめり込んでいた友人なんかは、そうヨイショされても、なんだか当惑しているようであった。実際、オタクは別段アザラシみたいな体型ばかりではないし、文化の担い手だなんて、そんな大層な意識も無いし、もちろん「高等遊民」なんてレッテルを貼られるほど社会から浮いた存在でもない。その辺の兄ちゃん姉ちゃんと大して変らない、そこそこの社会性をもった、そしてある意味とても泥臭い人間、それが「オタク」なのではないかと、私には思える。
 ただ、確かに彼らオタクの中には、
 「自分は他人と違う、何か、を持った人間なんだ」
 なんていう案配の、妙な選民意識がある場合もあったりするし、何かにつけてオタクと一般人の違いを強調する人もいたりする。
 しかし、その同じオタクの中には、同時に「普通の人間として認めて欲しい」という、奇妙な帰属意識も混在しているように思えてならない。大体「オタクがオタクらしくオタクとして振る舞える」事が可能な場所なんて、イベント会場やオタク向けショップの店内と、まあスクリーントーンの切れ端とかで小汚くなった自室内部とかで、ほとんど全部なのではないか。一寸視点を変えると、多くのオタクは、なんとかして普通の人になろうと、この「普通の人」という奴以外を認めようとしない日本社会に溶け込もうと、日夜必至に努力しているようにも見えてしまう。
 だから、オタクの方々が何かにつけて徒党を組んで、仲間内でべたべたの付き合いをしたり、一度敵と思い込むとあきれるほど攻撃的になったり、そうかと思うと自分の「オタク性」を徹底的に否定したり、はたまたくどいほど強調したりと、一種分裂的な行動を起こしてしまうのではないか、という気もするんである。
 逆に言うと、イベントやサークル等で形成されるオタク社会とは、結局日本社会の縮図になってしまうのである。根回しと水面下の交渉、奇妙な仲間意識の押しつけに外への敵愾心、嫌な本家本元意識や囲いこみ競争、実は封建社会なところ等々、数え上げれば切りがない。
 それでは、何故メディアはオタクを特別視するのかって、当然のようにそんな疑問が沸いてくる。単にメディア側の都合で、媒体にオタクを登場させると売れると思い込んでいるから、なんて事を言い出すと身も蓋もなくなるのだが。まあ、確かにそういう側面もあるとは思う。
 ただ、私個人として、実はオタクが日本社会を映す「鏡」になっているのでは、という気もしているのである。だからこそ、このオタクの言動が世間の注目を集めているんじゃないか……なんて思うのである。

・疎外と帰属

 今までオタクを説明する際に語られていた「疎外と帰属」理論には、何か違和感を感じていた。
 今までの説明だと……マンガやアニメ、テレビゲーム等といったモノは社会的に「あまり価値が無い」とされていたため、成長してもそれらに興味を持ち続ける人々は、一般社会から疎外されていた。しかし、何かのきっかけで、同じ趣味を持つ人々やグループとめぐりうことができた場合、疎外の裏返しとしてその人々やグループに強力な帰属意識を持ち、社会より仲間内の常識に従うことになる。だかオタクは仲間内で固まってばかりいて、社会性がなくなってしまう……という事になる。
 確かに、ある程度はあたっていなくもないかな、なんて思ってしまう側面もあるが、やはり違和感が残る。
 なにしろ、今ではコミケが割と真面目なイベントとしてメディアに取り上げられたり、女性タレントがアメコミフィギュアのコレクションを蘊蓄交えて自慢したりしていても、違和感なくすんなり受け入れられてしまうような状況なのである。
 マンガやアニメのことを子供だましとか、レベルが低いとか言ってる方が「わかってないおっさん」とかいう事になってしまうし、ゲームに至ってはもうなにも語る必要はないだろう。
 今のオタク達、それもマンガやアニメ、ゲームのオタクばかりではなく、マニアックに趣味的な何かを追及する人々という意味でのオタクのほとんどにとって、現代社会はかなり生きやすい世の中になったのではないかと思う。少なくとも、オタク=社会不適応者なんて単純素朴な図式でしかオタクという存在を捕らえていない人は、相当減少した。
 例えば「もう中学(高校)生になったんだから、アニメは卒業でしょ」なんて小言、親に言われたことないだろうか?
 もちろん、小言の種はゲームでもマンガでも、なんでも良いのである。要は勉強やスポーツ以外の趣味的な「なにか」だったら、それは親にとって「卒業しなければならない子供のお遊び」だったという事だ。まあ、人によっては音楽や所謂「名作映画」なんかはOKだったかもしれないが、基本は変らない。
 少し前までは、親は本当にそういう小言を子供に向かってだらだら垂れていたし、躾という名目で子供を自分の思う通りの人間に仕立てあげることが出来ると信じていた。ところが皆さん御存知のように、家庭という名の建て前はもうすっかり崩壊したし、学校もその役目を肩代わりできなかった。まさか、地域社会なんて過去の遺物が機能している筈もない。
 結局、もう大人は子供に自分の価値観を一方的に押しつける事は不可能となったのだ。だから、子供同士の(つまり自分の)人間関係が良好に機能している限り、子供でもオタクがオタクとして生きやすくなった。
 ところが、世の中には未だに、アザラシ式のステレオタイプなオタク像を振り回し、一方的に他人を「まともな社会生活ができない」なんて決めつけを言う輩もいる。ネットとかでは特に目立つ。
 実の所、そういう人々の多くは、本人がオタクだったりする。つまり、オタクが自分のオタク性を正当化するために、世間に迎合したいオタクが他のだらしないオタクを攻撃するための方便として、そういう単純な図式を持ち出しているようなのである。
 要は、社会的圧力が減少したので、今度はオタク同士の内輪もめが始まったという事である。
 尤も、そういう単純な図式を持ち出した本人にも、その単純な図式は丸ごと当て嵌まる。即ち、これは一種の自爆ネタなのだが、当の本人はそれにすら気付けない頭の持ち主だったりするから、一層始末が悪い。
 さて、ようやくこの論の主題に入ってきた。
 つまりは、オタクを疎外している主役が、一般社会からオタクそれ自体へと変化し始めている、という事なのである。
 では、一体何を間違えばこんな事態になるのかと言うと、理由が3つほどあると私は思っている。

・勝ち負けが全て

 まず第一に、人間という生き物には、どうしても自分がされたように人と接してしまう、という特性がある。即ち、これまで他の人の(特に目上の人の)価値観を押しつけられ続けてきた人は、つい目下の人間に対して自分の価値観を押しつけてしまいがちなのである。
 実際、オタクの世界に限らず、ビギナーを露骨にバカにしたり、矢鱈と自分の流儀を押しつけたりする人が後を絶たない。おまけに、嫌なマニアは往々にして、上級者とかプロ、評論家にとことん弱く、下手をすると完全にその人の言いなりなってしまう。そして、オタク達の集まりが、ひとつの世界としてある程度は成立し始めたので、言わば業界人を頂点とした階層社会が形成されてしまったりして、その手の「嫌な個性」の持ち主たちが、自分より立場の弱い人間をひどく疎外するようになっていったのである。
 例示すると、会話に専門用語を大量使用して、自分だけ理解している様な態度をとるオタク、という事になるだろうか。なにしろ、この種のオタク達は何かにつけて、「なんだ、知らないのか」とか「違うな」とか言って、とにかく自分の知識や技能をひけらかそうとする。この他に「まだまだ甘いよ」というのもお気に入りの言葉らしいが。とにかく人を小馬鹿にした態度をとるのが特徴で、うっかり彼らに初心者、もしくは「自分より劣る人間」なんて思われたら最後、相当不愉快な経験をするのは確実である。
 彼らが受け入れるのは、あくまでも彼らの価値観で自分より上だと思った人間だけであり、それも影で何を言われているか判った物ではない。とにかく、この種のオタクは人間関係を全部「勝ち負け」で判断しているから、その関係は対等では有り得ない。おまけに、一度負けてしまうと完全に屈伏しなければならないと思い込んでいるらしく(少なくとも、彼らに「負けて」しまうと屈伏させられる)、その為どんな手段を使ってでも勝とうとするのである。
 冒頭に話したような、ただ純粋に好きなマンガを買いたくて本屋にやってきた幼気な少年少女達にも、もしくはそれに近い経歴の人にも、こんな態度で接するのが当然だと考えていたりする。
 これでは、周囲の人間が疎外感を感じるのも無理はない。
 人間、辛い経験を持つ人は自分のされたようなことは他人にしないだろうと思いがちだが、された分は利子を付けてやり返さないと気が済まない人もたくさんいる、という事なのかも知れない。ちと悲しいが。

・役に立たなければクズである

 第二に、なんだかんだと言ってもオタクのほとんどは世間からの承認を求めている、という事がある。
 確かに、ある程度キャリアの長いオタクなら、誰でも一度は所謂一般人にひどく疎外された経験を持っていたりする。時々、そうした経験を経ているからこそ、社会の多数派の価値観とは異なる自分の価値観をはぐくんでいるんだ、と言う人いるが、オタクがみんなそうだとは限らない。とにかく多数派の価値観に擦り寄って、なんとかして自分の存在を世間に認めさせようとするオタクも大勢いるのである。
 アニメ系やマンガ系のオタクで例示すれば、とにかく作品の芸術性やメッセージ性、テーマ性を取り上げ、下手すると情操教育なんて使い慣れない言葉まで持ち出して、矢鱈滅法社会に役に立っているという事を強調する類のオタクである。もっと直接的に言うと、「こう言った新しい文化(といったら語弊があるかも)が社会に認められるためには、ある意味で社会的なメリットや、プラスになることが突出していなければならないのですよ」なんて事を本気で(しかも大声で)言ってくるようなオタクである。
 根本がこういう類の人間だから、何かのきっかけでマスメディアに取り上げられたり、作家や作品が知識人の話題になったりすると、もう大変。そこら中に喧伝して回ったりする。ましてや、何か権威のある賞でもとってしまったら、もうしばらくその話しかできなかったりする。
 確かに、オタクといえども社会の中で共存する必要がある以上、ある程度は多数派の価値観と摺り合わせをする必要があるし、社会的メリットがあることは決して悪いことではない。が、これは何だかどこかで聞いたような話だ。と言うか、これは要するに、前に話した旧来のオタク観の裏返しに過ぎないのである。
 「もう中学(高校)生になったんだから、アニメは卒業でしょ」(=アニメはお遊びで何の役にも立たないから)。
 世間の役に立たないから疎外される、疎外されたくないなら世間の役に立たなければならない。
 これで、疎外されっぱなしだったら、それこそいままでのオタクと同じなんである。しかし、最近結構受け入れられてしまったりしているから大変だ。東大の講師やってる太めの人なんて、その好例である。何か世間的にまずいことがあると、「それは、真のオタクではない」なんて具合に、もうあっさり切り捨ててしまう。「一番偉いオタクがクリエーター」なんて権威主義もどきの言説も似たような物である。しかし、趣味の世界でこんな主張が支配的になったら、えらく息苦しくなるような気もするんだが。
 問題はそれだけでは無い。大概の場合、彼らは自身の趣味が「役に立つ」事を世間に認めさせるのと同程度に、もしくはそれ以上の情熱を傾けて、役に立たない部分を切り捨てようとするのである。それも、役に立つ、立たないは結局「多数派の価値観」で判断してしまう。もしくは、どうにかして自分の価値観を「多数派の価値観」であるかのように見せかけようとしたりする。実際、会話中に異様なほど「普通は」とか、「常識だろ」とか、「みんなそう言ってる」とかいう語を混ぜるタイプのオタクがいる。とにかく自分の価値観を大きく見せようとするのである。
 所詮少数派であるオタクが、かかる態度を取るなんて、自滅行為なんだが。
 たまたま偶然、多数派の価値観がオタク方向に擦り寄ってきたから良いのであって、もしそうではなかったら一体どうするつもりだったのだ。下手をすると、生涯自身を落伍者だと思い込んで人生送っていた羽目になったかも知れないのに。第一、「多数派マンセー」なんて態度を取るなら、オタクなどやめて普通に、大勢いる一般人として生きれば良いのではないか。
 私は前述の通り、木炭自動車などという「何の役にも立たない」知識が好きだ。が、上述のようなオタク達にとって、私、もしくは私のような人間がどうなろうが、知った事ではないのである。
 これでは、周囲の人間が疎外感を感じるのも無理は無い。
 メディアに登場する評論家がアニメを浮世絵に例えるのは、世間受けという観点からは良い方便かも知れない。しかし、エヴァンゲリオンのような、偉い評論家先生が騒ぐようなアニメばかりがアニメではあるまい。一方で、小さな子供向けのエンターテイメント作品は、ほぼまるっきり無視されたりする。こいつはかなり権威主義的な態度である。
 多数派と距離を保って生きているような人でも、何かのきっかけで多数派に受け入れられたら最後、自分を殺してでも多数派にべったり擦り寄る人が大勢いる、という事なのである。なにやらちと悲しいが。

・萌え萌え

 最後は、一度帰属する場所を見つけたが最後、その居心地の良さを徹底的に追及するという事である。
 一度何らかの形で自分を受け入れてくれる仲間を持ってしまうと、即ち帰属する場所を確保すると、後はぬくぬくと暮らしていけるのである。となると、当然他の場所には出かけなくなる。「帰属する場所」に行けば受け入れてくれるのだから、リスクを侵してまで他の場所を探すのは、かなり酔狂な部類であろう。おまけに、ある程度メンバーが固まってしまうと、その場でだけ通じるネタというか、話題が生じるのも自然な現象である。こうなると、ますます帰属意識は高まるし、既にいるメンバーにとっては居心地が更に良くなる。特にオタク仲間ともなると、好きなジャンルに関しては当然ごっそり知識を蓄えているので、例え禅問答のような会話であっても、と言うか、なぞ掛けのレベルが高いほど、内輪的ぬるま湯感覚が増すのである。
 断っておくが、私はこのようなコミュニティーを全否定するつもりはない。好きな仲間と好きな会話が出来る、全く結構。居心地が良いのは当然だ。
 ところが、当然全人類が特定のオタク仲間に「帰属」しているのではない。疎外されたくないからと集まった仲間でありながら、外部の人間(この表現自体が既に疎外をうんでいるのですよ)にとってみれば、そういう内輪で固まったグループというのが気持ち悪くて仕方が無いのである。皮肉な現象と一言で片付ける事も出来るが、イベントか何かの拍子に、その間に紛れ込んでしまったが最後、どうしようもない疎外感を味わう羽目に陥る。
 パソコン通信なんて、全てがそういうぬるま湯的帰属空間で構成されている考えても良いだろう。なにしろ、わざわざネット空間で会話している人となると、その会議室なりホームページのテーマが好きな人、というのが大前提なのだから、事の始めから内輪で固まっているのである。当然ぬるま湯加減も急速に高まる。
 おまけに、ネットの世界(特にいわゆるパソコン通信)ではあんまり長大な文章の使用は困難なので、どうしても細かいニュアンスが欠落しがちとなり、必然的に解る人にだけ解る文章が多くなる。更に、技術的制約から独特の常識が発達してしまったため、文章の作法だけでなく、改行や引用のやり方についてまでネット以外の世界とは異なるマナーが必要とされる。その凄まじさと来たら、改行を打つ打たないや表現のマナー等で会員同士がもめた挙げ句、他の会員に対する苦情は私を窓口にしてくれと、管理者が小言を言った古株の会員に釘を刺さしたら、今度は管理者が横暴だと言って古参会員達がごっそり抜けてしまう、なんて事態が、それこそざらに発生しているのである。
 おまけに、ネットの中、もしくはオタク仲間内部だけで通用する表現も多く、知らない人間にはえらく敷居の高い世界である。
 オタク定番用語に「萌える」というのがあるんだが、一応説明しておくと、可愛いキャラクター(だいたい美少女関係)に対する特別なファン感情を表す言葉、ぐらいに理解しておけば良いだろう。細かいニュアンスは違うかも知れないんだが、はっきり言って私の文章力ではその辺まで表現不能である。
 まあ、ネットでの使用例を挙げてみよう。

 A:○○タン萌え萌え~
 B:漏れも萌え萌え~~
 A:前は××萌えだったけど、俺いま○○萌え。
 C:萌え~萌え萌え~~~

 ○○や××のところには、適当なコミックキャラ、アニキャラ、ゲーキャラの名前を入れて解釈して欲しい。後は、字面から読み取って頂きたい。ここで私が言いたい事は、彼らのキャラに対する思い入れを通訳する事ではない。彼らの世界が如何に閉ざされているかという事を示す事なのだから。
 まあ、全部が全部ではないが、一度内輪の方向へ転んだネット空間というのは、大凡こんな感じである。
 繰り返すが、そりゃ当人たちは気持ちが良いだろう。人目に付かない所ででやっている限りは、なんら問題ないだろう。だが、所謂オタクには、他者の気持ちあまり考慮しないという悪癖がある。それに、自分の楽しいことは他人も楽しいというか、とにかく自分が楽しくなると、視野がえらく狭くなる。
 ちと真面目に表現すれば、オタクはすぐに「自我を拡大」して「他人を同一視」すると言う事になるのだが、なんにしてもこの二つが結びついちゃうと、もう始末に終えない状況となってしまうのである。特に、一見近い趣味を持つ人達が集まる即売会イベントや、ネット内が細分化されている大規模ネットのオフ会、商業イベントに「濃い」ファンが押しかけた時なんてのは、もうどうしようもないほど「周囲が」息苦しくなる。ただ一人で木炭自動車に「萌え萌え~」な私は、木炭自動車の素晴らしさをいきなりその辺の一般人に熱弁して回ろう、などと思った経験はない。大体仲間なんていないから、帰属する場所がない。しかし、帰属する場所、居心地の良い場所を見つけたオタクには、そうした感覚が驚くほど希薄なのである。
 オフ会に限らず、仲間と集まって騒ぐのは楽しい。たが、あんた達ばかりがそこにいるのではない。たまたま趣味が似ているだけで、いきなり萌え萌えとかなんだとかの、不可解な楽屋用語を使われても、周囲は当惑するのみなのである。
 これでは、周囲の人間が疎外感を感じるのも無理は無い。
 普段、人の目ばかり気にしてびくびく生きているようなオタクでも、イベントになると他人を押しのけて自分の楽しみばかり追及していたりする。中間はないのかと言いたくもなるが、それができるような人間なら、とっくにオタク辞めているという事でもあるのだろう。ちと悲しいが。

・オタクはどこにでもいる

 上述三要素は非常に密接に絡み合っているので、人によっては全て全部統合してしまうかも知れない。それとは逆に、もっと細分化する人もいるかも知れない。だが、とりあえず私としては、この三つ程度が適切ではないかと思う。
 実際、ほとんどのオタクは2つ以上の要素を兼ね備えているし、オタクが最大級に問題になるのは3つの要素が全て揃った時なのである。
 ただし、オタクというか、オタク的嫌な奴ってというのは、それこそどこにでもいるのである。例えば、今まで読んだ文章の「オタク」という箇所を、おじさんとかおばさん、若者に差し替えて、もう一度読み返してみて頂きたい。すると、結構意味が通じる部分も発見できる。
 要するに、オタクなんてどこにでもいる、ただの嫌な奴の事なのである。逆に言うと、人に嫌われる奴は大概オタク的いやらしさを持っているという事になるかもしれない。
 まあ、敢えてオタクをオタクとして特別に取り上げる意味があるとするなら、新しい日本の「嫌な人間」を真っ先に体現した、という意味で特別視するべきなのだろう。そして、その意味では確かにオタクは時代の先端を行っていたし、新しい時代を切り開いたと言えるのかもである。
 だが、私個人はそんな時代の到来なんて望んではいなかったのだが。
 結局、話の中心は、彼ら(何もオタクに限ったことではない)が他人を他人として認識し、存在を認めていないという事である。他人を自分の「敵」か「味方」としか考えられなかったり、自分の理想を語る「迷える子羊」にしてしまうか逆に「導師」として頼ったり、もっと単純にとにかく何もかもが「自分と同じ」なんて無邪気に思い込んだりしている。
 これでは、子供と変わらない。
 そして、こうした子供と変らない大人達が街には山ほど彷徨いている、という事にそろそろ大勢の人達が気付き始めているのだろう。
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テーマ:オタクの私生活 - ジャンル:サブカル

  1. 2007/12/13(木) 13:53:55|
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